お坊さんが実際に使っているお経本の中はどうなっているのか?

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どうもおしょうです!

今日もですが、

最近は毎日せっせと木魚の曲打ちの練習をしております。

木魚の曲打ちに関しては、

以前お話ししたのでおいといて、

今日はそんなお坊さんがお経を練習する時に、

お経の本はどうなっているのか?

をお見せしようと思います。

 

ていうか、もう写真で見えちゃっていますね。笑

 

そうなんです。

こんな感じで、お経の本に直接書き込んで、

どう読むか?どう叩くか?というのが

書き込まれているんですね。

 

まーお坊さん、全員が全員そうではないですが、

書く人は結構いたりします。

 

今回おしょうの場合は、

木魚の曲打ちということで、

それに合わせた書き方をしています。

 

赤い印があるところが、

木魚の打つポイントですね。

あとは、

意味ごとに線で区切ると。

そんな感じです。

 

それ以外にも、

作法や全体で合わせるポイントがあれば

忘れないように書きますし、

絵なんか書いてすぐに思い出せるように工夫するんですね。

 

こうやって、

自分はバカだと思って、

とりあえずアレやコレやと書くわけですね。

これも修行の時に先輩から教わったことです。

 

「全部書け!」と。

そしたらなにやるか見たらわかるでしょ?と。

 

ということで、

そんなことを言われていらい、

それを実践しているってことですね。

 

もちろん書いたものをみて練習をするので、

だんだんとシンプルな書き込みだけになってきます。

まーこれも他のことと同じことですね。(^^)

 

最初はブゥワーーっって書くけど、

慣れてきたら見なくても大丈夫みたいな。

 

これに感じては、

仏教以外でいいこと教えてもらったなと

思っています。

 

バカだと認めて、

わからないところは全部書く。

シンプルで良いことです。

 

こういう風に、

本来、「教え」というものは、

シンプルで単純なものだと思います。

ただ、

僕達、人間はややこしいことを

考えるのが好きなので、

なんでも難しくごちゃごちゃに考えてしまうんですね。

 

そういう時は、

極端でダイナミックなことを考えてみるといいかもしれません。

まさに何も知らないバカになったつもりで。

 

できないなら、できるまでやれば、できるみたいなね。

 

これを仏教では、

「大愚(たいぐう)」といいます。

大きな愚か者という意味ですね。

で、

これは「大きな」とついているところがミソで、

単に愚か者ではないということです。

大きく愚かなことをするから、

モノゴトに執着することなく、

善かれ悪かれ前に進むということです。

 

これを今風にいうと、

「自由な心」ともいいますね。

柔軟で真っ直ぐな心を持つものです。

 

この大愚の教えを見ると、

いつも「もっと愚か者であろう!」

っと勇気づけられたりします。

 

まだまだ愚か者、

もっと大きく愚かであろうと。

 

ただ、

誤解をしてほしくないのが、

自暴自棄で破れかぶれということでは

ないのでご注意を。

あくまで前向きな気持ちで愚か者であろうということです。

 

おそらく、

楽しいことも、

だいたいは中途半端なことよりも、

極端にだいたんなことをした方が楽しいと思います。

 

中途半端な泥んこ遊びよりも、

畑に体ごとだいぶして、泥んこ遊びするとかね。

 

雨にぬれるのを気にしていたけど、

一回取り返しがつかないぐらい、

ビショビショになったら、雨なんてどうでもよくなるとかね。

 

そういう時って、

テンション上がるし、

小さいことが大きなことをすることによって、

どうでもよくなるでしょ?

 

そんな感じです。

 

だから僕も、

この大愚という言葉は好きな

教えだったりします。

いつもこれを見て、

自分を振り返って反省しているので。

「もっとやれと。」

 

愚か者ではない、

大愚であれ。

 

今の自分は中途半端じゃないか?

まだいけるんじゃないか?

なにか壁にぶちあった時は、

この教えを思い浮かべて自問自答されてみては

いかがでしょうか。

 

これから歳をとっていっても、

そういう生き方を選んでいきたいものです。