お寺がアナログで非効率な理由とは?そこから学ぶ仏教の教え

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どうもおしょうです!

5月に入り、

いよいよゴールデンウィークがはじまったといった感じで、

いかがおすごしでしょうか?

職種によってはバタバタとされている人も

いらっしゃるかもしれません。

家族や友人などとこの機会に遠出される方も

いると思います。

はたまはゴールデンウィークは勉強しょ!

っという渋い方も・・・笑

おのおの連休をすごされていると思います。

 

おしょうはというと、

今日あたりは地元で神輿祭りがあり、

担ぎ手?(少子高齢化で今や神輿は引っ張っています)

として参加するっといったところ。

この地元で年に一回の行事なのですが、

毎年、職業柄か思うのが、

喪中で祭りに参加できない家があるということ。

ただでさえ人員不足なのに、喪中のこともあって少ないんですね。笑

 

まー田舎あるあるでしょう。

 

町中ではそういうことも稀薄になって、

無いかもしれませんが、

田舎ではそういう穢れみたいな考えが今でも残っているんですね。

まーなぜ残っているのか?というのは、

そういうのを信じているというか世間体がたいがいなのですが・・・

田舎ではその世間体というのが町中よりも顕著に表れるので、

気にされている方が多かったりします。

 

人と人との距離が近い分、

1日で噂話が広がるということですね。

 

とはいえ、

中にはおしょうみたいに気にされない方もいらっしゃるので、

人それぞれ、お家それぞれということですね。

個人的には49日が過ぎていれば、参加すればいんじゃないかな?

っと思っています。

神様はおそらくそんな器の小さい人ではないですからね。

器の小さいのはいつも、人間です。

 

とまーそんな前置きの話しもしつつ、

今日はお寺の鐘について話そうかと思います。

(前置き長くてすみません。許してネ!(^_-)-☆)

 

もう写真で出ているのですが、

これなんだと思います?

たまにお寺の廊下などにあるやつなんですが、

答えをいいますと・・・

半鐘(はんしょう)という、時刻や合図を送る鐘です。

まーお寺の場合は、

時間を知らせることでよく使われるのですが、

主に法要の始まる前とか、服を衣に着替えるときとか、

場所に集合する時などによく叩かれていたりします。

(お寺が広いんでね!鐘で合図した方がわかりやすいということです)

 

そしてこれを、

一番鐘、二番鐘、三番鐘と用途によって、

分けて叩くんですね。

叩き方は場所によって様々ですが、

主に山鳴りのように小から大、大から小へと叩いていきます。

音はというと、結構ウルサイですね。笑

近くにいたら、耳がキーーンっとなると思います。

 

てな感じで、

お寺には独特の時刻を知らせる道具があります。

で、

そういうのを知ると、

なんで時計やアナウンスの放送、携帯など、

デジタル機器を使って知らせないんだろう?

って思ったことがあるんですね。

 

だって、そっちの方がどう考えても便利ですよね?

 

確実に相手に伝えることができるし、

今や時計か携帯はみんなもっていますから、

いちいち鳴らさなくてもよかったりします。

 

そんな時にある一人のお坊さんがいっていたことなんですが、

「便利になるということは、考えを奪うということ」

って言われていたんですね。

それを聞いて、

なるほどなぁ~っと。

 

なにもかも効率を重視すると、

便利にはなって良いんですが、

その分、その間にあったモノというのがそぎ落とされて無くなっていたります。

 

例えば携帯なんかはそうですよね。

携帯が出てきたことによって、

人と直接会うということが少なくなりました。

さらにインターネットの登場によって、

僕たちの生活が便利になった分、そういう「直接」というのが、

どんどん薄れていったんですね。

 

それまでは、

どこで会うとか、何時に会えばいいとか、

直接会った時の相手の表情や仕草などで、

モノゴトというのを捉えていたんですが、

それすらも考えなくていい世の中になってきました。

 

クリック一つで、ポンっと。

まさに便利ですよね。

 

で、先にいっておきますが、

便利になったから悪いという、

オヤジ臭いことを言っているわけではなくて、

便利になった反面、そういうのも無くなったんだよっというのを

言っているんですね。

 

直接見て自分で考えるということが。

 

まーそのお坊さんは、

例え話しで、お金の話しをしていたのですが、

「海外の発展途上国では、買う側が値段を決めるんだよ」っと。

「だから、モノをよく見るということをしなければいけない。

ただ、今の日本はそういうよく見て自分で良いモノかどうかというのを考え無くなった」っと、

おっしゃっていたんですね。

 

要は同じことで、

モノが便利になった分、その間にある、

余裕みたいなふくみが無くなったということです。

 

ふくみ。

 

それは人それぞれ、

いろんな捉え方ができるということ。

言い換えれば遊び心があるということ。

江戸時代でいえば粋というやつですね。

 

お寺におそらく魅力を感じられるのであれば、

おそらくこの『ふくみ』があるからではないかと思います。

 

すき間があるということ、

だから考えさせられるんですね。

 

お寺の半鐘というものは、

そういった意味合いで、あえてデジタルにすることもなく、

すき間を与えているのかもしれません。

 

心は効率的ではないからこそ、

ふくみが必要だということですね。

 

たまにはあえて非効率なことをやっても

いいかもしれません。

豊かさとはそこにあると思いますよ。たぶん。