どうもおしょうです!
写真を整理していたら、
護摩祈祷をしている時の写真があったので
ここでのせてみました(^^)
これは毎年、
2月の旧正月に行われる護摩法要の写真で、
近所の方が一年の祈願にこられているところですね。
煙が堂内を包み込みモクモクと部屋中が
煙だらけになるわけです。
まーこんな感じで普段はおどけていたりしますが、
こういう儀式っぽいこともやっていたりするんですね。
ただ、
こういうのばっかり話しすぎていると、
いかにも「お坊さん」みたいな重たい感じに見られるので、
あまり紹介していなかったりします。
儀式とか法要とかってちょっと暗いイメージがありますからね。笑
で、
今日の本題なのですが、
綺麗ごとをいうと綺麗ごとに縛られるというのがあります。
どういうことかというと、
良い人のふりをしていると、
逆に悪いことができなくなってくるという感じですね。
周りに好かれようとするために、
嫌われることや失敗ができずに動けなくなるということです。
これってよくあると思うんです。
僕自身ももともとそういうタイプの人間ですし、
お坊さんという役柄もあってか、
油断するとそういう状態に陥っている時があるんですね。
まーそういう場合は、
ほとんど自分の自意識過剰の錯覚に近いのですが。笑
なので自分でモノゴトを決めれずに、
周りの人の後ろに隠れて流されやすい傾向があります。
どういうことかというと、
あの人があっちにいくからボクもあっち的な。
できるだけ人に嫌われないように、
多少不満があろうが矢面に立つことをさけるわけですね。
そうやって人に好かれるところだけの
良い自分だけを見せていると、
だんだんと本音を言えなかったり、身動きがとれなくなってくるんですね。
常に誰かに頼り、
なかなか人に心を開かずにコソコソしている感じです。
そうなると単純に息苦しいわけです。
嫌われたくない、バカにされたくないという
負の気持ちに支配されるわけですね。
他にも
マナーを勉強しすぎてマナーや規則を守らなきゃっと
縛られたり、
先生なんかはよくあると思いますが、
聖職者と見られるがゆえに教育の現場で正しいとされる
先生像に縛られたりするということがあったりします。
ようは言葉先行で、心が追いついていない
ということですね。
もっというと周りの期待に応える完璧な人間になるために、
自分に嘘をついているという状態のことです。
なので、
完璧を目指せば目指すほど、
人は不完全で欠陥のある生き物ですから、
そこに溝が生まれるわけですね。
表面はとりつくろえても、
ボロがでちゃうわけです。
そういう、
綺麗ごとを言って綺麗ごとに縛られないとめにも、
常に自分というものを客観的に見つめたり、
そういう状態に自分がなってしまう環境、
または人間付き合いから一度抜けだして、
現状を客観的に見てみるということを定期的に
してみると良いかもしれませんね。
仏教を勉強する時もそうで、
僕が気をつけていることは、
書いてあるとおりに読まないということです。
どういうことかというと、
お経や仏教の教えというのは、
基本時代が経っていますから、
洗礼されて綺麗な部分しか残っていなかったりします。
イメージしてもらえばわかりますが、
誰かの話しを聞いたり、
勉強したりする時にメモるのって、
自分が大事だなと思ったところだけをメモると思うんです。
間違っても先生がお茶を飲んだり、
休憩中に他愛もないプライベートな話しをしている時に
一字一句、所作行動を記録してメモる人って、
まーいないと思うんです。笑
なので、
メモるとしたらやはり重要な部分なわけで、
それがお経の本にも通じるものがあったりするわけですね。
でも、
綺麗な部分というのは
蓮の花が泥水があって存在しているのと同じように
無駄を経験した上での集約となっているわけです。
つまり、
綺麗で正しそうに見える言葉の中には、
泥水のような無駄も含まれているということですね。
ちょっと難しい話しになったかもしれません。笑
わかりやすい例を言うと、
ある人が
「ケンカをしてはいけない」ということをいったりします。
これは、
ケンカをして自分自身が嫌な目にあったから、
「ケンカをしてはいけない」ということを人に伝えていたりします。
つまりこの言葉を紐解くと、
「昔、自分がケンカをして嫌な目にあったから、
ケンカをしてはいけない」ということになり、
それを要約すると、
「ケンカはいけない」ということになるんですね。
そう考えると
ケンカをしたからこそ、
「ケンカをしてはいけない」という言葉が生まれたわけで、
最初っから「ケンカをしてはいけない」という言葉
があったわけではないということが言えるわけですね。
なので、
人とケンカをして嫌な目にあったことがない人からすると、
なんとなく正しいように理解できますが、
心の底から「ケンカをしてはいけない」と思えないと思うのです。
つまり、
「ケンカをしてはいけない」
という言葉はケンカをしたことありきの言葉だといえます。
なんとなくわかっていただけたでしょうか?
ということで、
お経の本を読むときは、
見えている綺麗な表側だけを見るのではなくて、
その教えが生まれた裏を知り、
意味を理解するという作業が必要だったりします。
どうしても、
洗礼された綺麗な言葉ばかり見ていると、
自分が否定されているような錯覚に陷りやすいので。
そうなると人のための教えとか
もともこもないですからね。笑
ということで
少しまどろっこしい話しになりましたが、
ようは綺麗な言葉に縛られて自己否定にならないように
気をつけよう!ということでした。\(^o^)/