供養ってそもそもなんなのか改めて考えてみた

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どうもおしょうです。

最近、風光明媚という言葉に、

なぜかハマっています。

なので、

風光明媚って言葉をとりあえず使いたかったので、

こうやって風光明媚を言っているわけなのですが、

特に意味はありません。笑

なんか四字熟語ってカッコイイなと思いまして。

とても浅はかな理由です。

関係ないですが、

トリプルアクセルって言葉もカッコイイですよね。

とまーそんなどうでもいい話しは置いときまして。笑

まー生まれてこの方、

お寺という環境にいたりするわけなのですが、
(途中で逃走した時期もありますが、それは置いといて)

当たり前のように念仏やら仏像やらを見てきたわけです。

あーなんか唱えてるなぁー、

あー爺さん婆さん拝んでるなぁー的な。

至って普通の日常風景だったんですが、

ここ最近は、

そもそもコレは何なんだ?ってことを考えるようになりまして、

その一つが供養。

供養ってどんなイメージもたれています?

あの世があって、

そこにご先祖様がいて、

そのご先祖様が成仏するように拝むみたいなイメージだと思います。

僕もそうで、

そんなイメージでした。

でも、実際のところそれを信じている人ってどれだけいるのかなっ

て、疑問だったんですよね。

僕自身もぶっちゃけあの世の世界を見たこともないので、

半信半疑でした。笑

じゃーなんのために供養をやってるのかな?って。

そもそも言い出しっぺは誰だ!ってことで、

調べてみたんです。

そしたら、

供養みたいな文化はそもそも昔からあったんですね。

仏教が日本に来る以前に。

で、ざっくり言うと、

今みたいな仏教供養スタイルになったのは、

法然というお坊さんが主にキッカケと言われています。

まーそれ以前に恵心僧都という「往生要集」を作った、

お坊さんがいるわけなのですが、

主に一般的に浄土という文化を広めたのが法然と言われています。

宗派でいうと、浄土宗の開祖ですね。

で、

当時はこの浄土という教えはいかんせん、

反逆思想という考えだったわけです。

大島優子ちゃん推しのグループの中で、

一人だけまゆゆ推しがいて、

まゆゆの良さを熱弁したけど、

総スカンくらうそんな感じです。

なので、法然は何回か罪に罰せられ、

島流しにあいます。

でも、

まゆゆ推しの法然は、

まゆゆが一番だと言うことをネバーギブアップで、

伝えた結果、

浄土の教えが民衆に広まって支持を得たということですね。

で、こんな浄土の思想を、

なぜ総批判をくらいながら命をかけて伝えたかというと、

もう法然が生きていないので、

あくまで歴史を見ての推測でしかないのですが、

誰もが平等に救える教えを目指した

ってことだと思います。

南無阿弥陀仏を一心に唱えれば阿弥陀如来が浄土で救ってくれると。

というのも、

それまでは仏教の門を叩くには、

女人禁制のところもあったし、

ある程度の身分がないと入れないということもあったり、

今日食うのに必死で仏教どころではないと、

言った人もいたのではないかと思います。

なので法然は、

「どこが平等やねん!」っとツッコんだわけです。

で、

場所も、身分も、性別も、年齢も、時間も、

問わずにできる教えとして、

南無阿弥陀仏を唱えなさいと広めたわけです。

そうか、なるほどわかったと、

念仏を唱える意味は。

じゃー先祖の供養はなんぞや?ってなると思うんですが、

先祖供養について、

僕が思うには、

よく言われることですが、

やはり「感謝」だと、

または「慈愛」なのかなって思います。

だって、それがないと、

わざわざ花買って、掃除して、

時間作ってやらないですからね。

で、この供養のあり方にも二通りあると思っているのですが、

長くなるので今日は省きます。

それでこの供養なのですが、

さっき言ってた法然と同じで、

平等だなと。

供養する相手において、

過去どんな人だったとか、

悪人だろうが、善人だろうが、

平等だなって。

分け隔てない感謝っていう感じで。

これを考えていると、

本来は壁なんてないのに、

気づけば壁を作ってしまっている。

そんな当たり前のことに気づかされますね。

祭りもその土地の霊を鎮めるってことから、

はじまっていると言われています。

そう考えると、

祭りを楽しむってことにおいて、

あの人はどうのこうのとかって関係ないですからね。

念仏や供養にはそういう意味も込められていると思うのです。

まーしかし、

田舎の朝の田園風景は風光明媚ですね~。